
今号のテーマは“侍”ということで、日本が誇るラスト・サムライ、俳優の藤岡弘、さんにとことん語っていただければと思っております。さて、早速なんですが藤岡さんは小さい頃はどんな子どもだったんですか?
「宜しくお願いします。えぇ、どんな子どもですか、小学校の頃は体が弱くてね、引っ込み思案で、恥ずかしがり屋な子どもでしたね」
恐縮ですが、まったく全然想像つかないですね。
「でしょうね(笑)。非常に周囲が心配するほどひ弱な感じでしたね。わんぱくではあったんだけども、体はちょっと弱かったんですよ。で、それを心配した父が武道を教えてくれましてね、体を鍛えるためにというか、まぁとにかく父に武道というものをイヤというほど見せつけられてるうちに、だんだん何かがこう変わってきて」
では、そのお父様から武道を教えてもらって、ひ弱な体質が?
「そうですね。とにかく病弱だったんですよ。赤ちゃんのころに肺炎を患って、もう誰からも見捨てられたような状況で、もうおそらくダメだろうと言われるような状況で、遺影の写真を撮ったくらいですから」
赤ちゃんのときに遺影撮影ですか!
「そうなんですよ。遺影の写真を撮るぐらいの大変な状況だったそうです。でも、母の手厚い看病のおかげで助かったというか、生きられたというね。まぁ、そういう状況だったんで、今のように丈夫で、小さいころからものスゴいわんぱくという感じではなかったですね」
これまた聞くところによると幼少時代から滝に打たれていたということですが、それもひ弱時代の頃?
「またまたそんな話よくご存知ですね。でも、それはそのもう少し後の話ですね。心配した父もそういう風にして私を鍛えてくれて、だんだんと鍛えられて丈夫になってきたというかね。母は母で食べものなんかに注意してくれて、父は肉体の強化、精神的強化ということで。それでだんだんと体も丈夫になって、だから、今の私があるのはある意味では父と母のおかげと言えると思います。たまたま父が武道家でもあったし、母はお茶やお華や裁縫の先生で」
まさに文武両道の教育を受けられた?
「そうですね。でも、昔はそういう家庭はどこにでもあったので、うちは特別な家庭だったということではないですね。父も母も日本古来からあった伝統的なものを受け継いでいたものですから」
かなり厳格だったんでしょうね。
「母は優しい面もありましたけど、父は厳格でしたね。でね、私が育ったところの土壌が八十八ヶ所、弘法大師の八十八ヶ所の巡礼地なんですよ。四国の巡礼地の四十四番目の札所」
お遍路参りの折り返し地点ですか。
「そうなんです。大宝寺という大きい寺のそばの駐在所でね、父が警察官でしたから駐在所で。まぁそんな村で生まれまして、そういう土壌というか環境というかね、山に囲まれていて、自然が豊富な高原地帯でねぇ、山の幸は豊富だし、ウサギやイノシシがそのへんを走り回ってるわけで」
イノシシがそのへんを走り回ってましたか!
「走り回ってましたね。そういう自然環境の中で、しかもまた巡礼地ですから、春になると巡礼者が通過するわけですね。そういう人たちへの“もてなし”というか、“もてなし”の心というのは巡礼地・四国八十八ヶ所のひとつのしきたりとのような伝統なんでね、うちの母も旅人をもてなすという心を持っていて、巡礼の人たちをもてなしましたねぇ(しみじみと)」
藤岡さんのボランティア精神の源になっている部分なんでしょうね。子どもの頃の印象的な思い出があったら教えていただきたいのですが?
「そうですねぇ、よくイジメられていたことなんかは覚えてますねぇ」
イジメられてたんですか!?
「子どもの頃は転校が多くてですね、転校生というのはやはりイジメの対象になるんですよ。私もね、我慢して我慢して耐えていたんですけど、とある日とても我慢ができなくなって、気がついたらねぇ、自分はたいしたことはしていないつもりだったんですけど、まぁかなり酷い状態にしてしまって……、“効き”が良かったのかなぁ」
効きが良い武道を爆発させちゃったわけですか(笑)
「今思うとめちゃめちゃにしてしまいましてね、あらためて武道というものはスゴいなぁと思いましたね。ただ、それが母の知るところとなってしまってね、母は私を仏壇の前にまで連れていって、厳しい目で私をきっと睨みながら『あなたがこれ以上、人様に迷惑をおかけするんだったら、私があなたの命をいただきます』って『そして私もあなたの後を追います。それでよろしいですか?』って」
うわぁ、激怒りですね(汗)
「本気の母の目を見て私は震えましたね。私が言い訳しようとしたら『ならぬものはなりません!』ってね。もうグウも出ませんでしたよ。今は100歳なんで気丈だった母の面影はもうありませんけど。先祖の血を汚してはいけません、ちゃんと先祖に謝りなさいと。今ね、それを母に言うと笑うんですけど(笑)」
いい話ですねぇ。お父様からお叱りは?
「怒鳴られることはありましたね。道場の掃除をしていると、そこへ父がやって来て、私が「バレないだろう」って思いでまったく掃除していなかった窓の“さん”を指でなでるとそれをペロッとなめて、畳の隅のところなんかもペロっとなめて『馬鹿者! お前は自分の心を掃除しているということを忘れたのか! 掃除というのは己の心を掃除することなのだ。心を清らかに、掃除をしたところをなめてもいいくらいの掃除をお前はしてるのか(怒)』ってねぇ。それまで、掃除のことを『心の掃除』だなんてことは考えたことがなかったですから驚きましたね,ショックでしたよ」
こりゃまた侍っぽくていい話だなぁ。でも、そんなご家庭で育っていて、役者になりたいから東京へ上京することって、かなりハードルが高かったんじゃないですか?
「親の許しを得るということですか? 夢へ向かって歩き出すということはいわゆる自立ですからね。甘えた状況は私の家系ではなかったので、将来は自分で開拓していかなきゃならないなという考えでしたから、あんまりそういうことは関係がなかったですね」
なるほど。ちなみに、藤岡さんが銀幕の世界に憧れを覚えられたきっかけって?
「昔はね、映画とかそういった映像は唯一の娯楽だったんですよ。学生時代はもうバイトでちょっとお金が貯まると映画館へ行くというね。土曜の夜から3本立てとかのを観たりね。『宮本武蔵』とか『ターザン』とかを観に行ってね。ちょうどアメリカ映画やフランス映画が入ってきて、日本映画の時代劇も全盛期でね。もうどんどんハマっていっちゃって」
地元に来る映画はすべて観た?
「まさしくですね。ウエスタンのドンパチ映画とかねぇ、『ウエストサイド物語』とか、『白銀に舞う』とか、そういう映画を観ることによって海外の世界に浸ってね。そういうものにどんどんと興味がわいていくうちに、段々とそういうものを発信する場所に興味がわき始めて」
スクリーンのこっち側じゃなくて、スクリーンの向こう側に行きたいと思い始めた?
「そうですね。なのでもう東京に行くしかないと。当時はやはり東京にいないとダメでしたから、これは上京しなきゃいけないなと考え始めて、上京資金を貯めるためにアルバイトを幾つもやりましたね。自分でバイトして自分で稼いで、自分の必要なものは手に入れてっていう感じの状況でした」
ちなみにどんなバイトをされてたんですか?
「そうですねぇ、電話線の配線工事とか、パイプの鉄板を担ぎ入れる仕事、脱穀、缶詰工場のみかんを運んだりする仕事、収穫期になるとトラックでどんどん来るんですよ、これがまた力仕事でしてね」
あの藤岡弘、がみかんの缶詰工場でアルバイト……。
「あとはそうですねぇ、魚河岸に行ったり。あとは牛乳配達にデパートの配達、お花見でアイスクリームを売ったりドリンクやお酒を売ったり、あと変わったところでは船頭もやりましたよ」
せ、船頭さん!?
「1日中漕いでいても平気でしたね!(最高の侍スマイルで)」
いや、そこじゃないんですけど。まぁとにかくけっこうな数のアルバイトをやられてたわけですね。
「東京へ行きたいためのことなんでね、もうなんでもやりましたよ。で、ある程度お金も貯まってですね、東京に行くわけなんですけど」
東京に身寄りはあったんですか?
「それがまったくない状況だったんですよ。で、東京に住んでいるっていう友だちがいたなぁということで、その友だちの家を探し当てて向かったんですけど、夏休みでいなかったんですよ。まぁそのときは電話が繋がって泊まらせてくれたんですけど、その後はもう道ばたで寝てましたね、上智大学の裏の方にある川の土手で」
それじゃまるでホームレスじゃないですか!根城はすぐに確保できなかったんですか?
「寮付きのパチンコ屋でバイトしようとしたんですけど、そういうところは身元引受人がいないとダメだって言うんで すよ。当時の私はどっから来たのかも定かではないという感じでしたから、今思うとその対応が正しいですよね。だからもう当時は東京を転々としながらかなり苦労しましたね、転々としながらも、上京したのは役者になりたいからなわけで、俳優養成所の試験を受けて、通って」
アルバイトと養成所と野宿の往復の生活が始まると。
「そうですね。で、少し経って、お金も貯まったのでアパートを探してという流れですね。ところがですね、住むところが決まっても、やはりどうしても食べることができないんですよ。食べなきゃ養成所でもまともにできないんですよ。それでね、養成所に行く時間を休んでアルバイトを増やしたりして、養成所も講義の途中から行ったりとか、もうムチャクチャって感じでしたね(苦笑)」
まさに本末転倒ですね。
「トラックでの長距離輸送なんかもやっていて、夜中中走って、そのまま養成所に行ったりとかして、養成所に着いた途端に寝てしまったりしてよく怒られましたね」
侍と呼ばれている藤岡さんが講義中に居眠りしていたって、なんだか衝撃的ですね。
「決して良い生徒ではなかったですね。ただ、映画界という世界に少なからずいるんだっていう実感は持つことができて、養成所は楽しかったですよ」まぁ、私が自分の仕事を俳優と言えるような人間になるまで順風満帆ではなかったですよ」

下積み時代はとある大女優の家に居候して内弟子のような生活もされていたそうですね。
「よくもまぁそんなことをご存知ですね! まぁ、苦労はしていますよ。田舎者で、何にもないし、親の七光りもコネクションもない男でしたからね。なので、その居候時代も少しでも自分のためになればといろんなことをしてましたね、掃除はもちろん、犬小屋の掃除からもうなんでもね……。朝の5時くらいから深夜まで働いてましたね」
途中で心が折れて「やめよう」と思ったことは?
「それはなかったですね。途中で何度か人間関係に嫌気が差した場面があったことはあったんですけど、考えたことはないですね。ただ、芸能界というのは想像と違ってこんなところだったんだっていう無念さ、まあそのようなことが何度かあって、こんなところにはいたくない、日本での活動はやめて海外にでも行こうかなと考えたことはありました。けど、やっぱりお金がないといけませんし、そんなこと言っても目の前には現実があるわけで。現実はバイトバイトってね(苦笑)」
どうしようもないときはどのようにモチベーションを維持していたんですか?
「普通の人だったら耐えられないことだらけですよ、私の下積み時代は(苦笑)でも、私は武道をやってきましたから、耐えることや我慢することがへっちゃらなんですよ。人から罵られたりぶたれたり非難されたりしても打たれ強いんですよね。だからですね、武道ってのは非常にいいですよ。ちょっとやそっとの逆境なんてたいしたことではなく、いざとなったら覚悟を決めて戦うって感覚も養えます」
下積み時代を超えることができた要因は武道?
「そこは断言できますね。だってね、ちょっとやそっと殴られようがぶたれようが蹴られようが効かないですよ。痛くないもの。普通の人はダメージを受けても、私は殴られても何しても、ちょっと間合いを外すという訓練を受けているからまったく効いてないんですよ」
ホセ・メンドーサみたいですね。では、肉体的な攻撃だけでなく、精神的な攻撃にもその間合いを外せる?
「むしろ逆に相手のすべてがよく見えてますからね。だからね、とことん耐えられますし我慢ができる。まぁ、でもやられっぱなしだと死んじゃいますから、ある程度で頭にきちゃって、そうなったらやっちゃいますけどね」
やっちゃいますか(笑)
「まぁ昔の話ですけど、高校のときにね、私はスゴく目立っていたものですから愚連隊みたいなのがちょっかい出してきてね、相手の攻撃は全部当たらないんですけど、あまりに止まらないもんですから、たしか5人以上いましたし」
5人以上を1発KOですか!
「逃げた人もいましたし」
役者の下積み時代とかにもそういうことってありました? 例えば先輩俳優からとか?
「ありましたね、少しは。私は普段おとなしいからナメられるんでしょうね、しかも田舎者だし、弱そうで。誰も私が武道をやってきてるなんて思わない。だからナメちゃって、ナメきって、私もやられているうちに、私も堪忍袋の緒が切れましてね、自分を守らざるを得ないから(笑)」
堪忍袋の緒は長い方なんですよね?
「長いですよぉ、ものスゴく我慢強いですよ(ニッコリ)」
なら、そんな長い堪忍袋の緒を切っちゃった先輩俳優ってエゲつないことを藤岡さんにしてきたんでしょうね。
「そんなことはないんですが、集団でいるとそうなるのかな。ひとりだとやらないのに、集団だと。もうそろそろ諦めて許してくれよっていうところで止めないから、仕方ないですよね」
じゃあ。やっちゃった後はそりゃもう絵に描いたように人間関係的なものが変わっちゃうんでしょうね。
「そういうこともありましたね。その瞬間から態度が変わってかわいがってもらえるというね。まぁ、今思うと懐かしい思い出話って感じですね。私はね、そういったしんどいことや辛かったりする場面に遭遇すると、落ち込むんじゃなくて逆にワクワクしちゃうんですよ、修行してる感じがしてね」
日常のあらゆる出来事も修行に置き換えてらっしゃったんですね。じゃあちなみに、ホントに修行っぽいこともされてたりしたんですか?
「多摩川行って、ランニングして、柔軟やって、そして木刀を何百回も振る。そういった肉体訓練はしてましたけどね。それから武道訓練もして、真冬だったら滝行とか」
滝行ですか!
「これは厳しいですよ。寒い中で滝に打たれていると、身体の感覚がなくなっちゃうんですよ。寒いとか痛いとかもう全然感じなくなってきて、ひっぱたいても全然体が感じないんですよ(ニッコリ)」
それって死の一歩手前じゃないですか。
「やっぱりDNAがね、私の遺伝子というかね、自分の中でそういうことを経験してみたいってのが止められないんですよ。別にあんまり苦と思わないんですね。むしろ試してみたくなる。挑戦してみたくなる。今でもありますよ、試さなくちゃいけないとか、この歳でどれだけ耐えられるかとかね。私の遺伝子には挑戦していくとか、なんでもこう確認していくという遺伝子が擦り込まれているのかな」
当時、周りにそういう方っていらっしゃいました?
「意外にそのころは多かったですね。今の時代はみんなごまかして、自分を甘やかすでしょ。他人が見ていなかったら何もしない。そういうことをやることによって自分を試そうというか、自分の可能性、自分の限界、自分がどれだけ耐えられるかという限界まで追い詰める。それが楽しいというかね。どこまでやれるかというね」
はぁ……。これは耐えられないなって少しでも思ったこととかは?
「そんなもの、ほとんどが耐えられないですよ」
アハハハハ!
「そこから一歩踏み込めるかですよ、耐えられないのを耐えようとする気持ち。どんなに痛くても苦しくてもやり通す精神力ですね。藤岡弘、探検シリーズの頃はね、昔の古傷が急に悪化してもう腰の痛みが酷くて、錐を刺してグルグルとねじったような、毎日ずっと24時間、錐で刺したような痛みの中でも我慢して耐えました。痛いとか言ったことなんてないです、自分の中で全部消化して。まあそういうことは武道的に、自分としては当たり前だと思ってやってますね」
凄まじいまでの精神力ですね。そんな下積み時代を経て、藤岡弘、の歴史の重要部分「仮面ライダー」の主役というチャンスが回ってくるんですか?
「そうですね。当時の松竹っていうのは女優王国でしてね、男優のハードなアクションというのは少なかったんですね。でも、私はどうしても男として身体をとことん酷使して動けるようなアクションをやってみたいなと思っていたところに、仮面ライダーのオーディションがあって『あ、これはやってみたいな!』と思って挑戦してみたんですよ」
で、見事主役の座を勝ち取られるわけですけど、大変だったと聞いています。
「大変でしたねぇ(苦笑)」
当時は五社協定(各社専属の監督、俳優の引き抜きを禁止する協定)があった時代で、藤岡さんは松竹で、仮面ライダーは東映ですよね。
「これはねぇ、当時はマスコミを賑わせて大変な大騒動になったことがありました。あんまり言いたくないんだけどねぇ(苦笑)」