
奇術とくればもうこの方、ゼンジ―北京師匠(以下、師匠)にお話を聞くしかない!と、大阪までやってきてしまいました!!
「遠くまでご苦労さんやったねぇ(ニッコリ)」
今回は日本のマジック界をエンタテインメント化させた最高重要人物が見る、現在のマジック界というOGにしては珍しくマジメな感じでお願いしたいと思います。
「なんでも聞いてや、まぁお手柔らかに」
まず最初に、そもそも師匠とマジックとの出会いというのは?
「丁度小学校高学年の頃やねぇ。昭和21年、終戦直後のドサクサな時代、そらもう何にもない時代でしてね」
日本全体が復興に向けてひとつになっていた時代ですね。
「そうそう。でね、そんなときに何が楽しみやゆうたら、春や夏や秋のお祭りとかやわな。神社とかでいろんな見せ物や大衆演芸とかがあって、そういうのに行っとったんですわ」
その頃の見せ物なんてそりゃもうなんでもありだったんでしょうね。
「そりゃもうなんでもありや。見世物小屋なんかも今じゃ絶対にできひんもんばかりやったしね。でね、そんな出し物の中で、まぁ漫才とか演芸とかたくさんあるわけやけども、そんな出し物の中には露天商なんかもいっぱいあって、寅さん(映画・『男はつらいよ』の主人公)みたいな啖呵売の親父もぎょうさんおって」
いわゆる、しゃべくりの叩き売りみたいな感じですね。
「そうですわ。達者な言葉でお客さんを惹き付けて、なんやらようわからん薬とか、いろんなもんを売りおるんですわ。まぁ、今考えたら全部が全部詐欺まがいなもんばかりなんやけど」
がまの油みたいな(笑)
「そやそや。その親父らのしゃべくりがホントにおもしろくてな。で、そん中には手品をやりながら物を売る啖呵売のおっさんなんかもいてね。まぁそのほとんどが手品をやるやる言うて、結局最後までやらんってのばかりやったんやけど、多少の手品をやる親父もいてね。子ども心に手品ゆうもんにものスゴく興味を持って、その頃からそういう露天商の親父に付いてまわっとったんですわ」
叩き売りの親父のおっかけだったんですね」
「そやね。人が集まるとこで商売をすぐに始めおるんですよ。達者な方便並べて、それがもうおもしろおかしくてね。まさかそんなもんを自分が一生やるとは思いもしませんでしたけど」
アハハハハ。で、自分でも手品をやってみたいと?
「百貨店やなんかで小っちゃい手品ができるゆうもんが少し売ってたりしてね、それを買うて自分でもやり始めましたね」
今でいう手品グッズが当時すでに販売されてたんですね!
「けっこうあったで。箱の中にはちゃんと種明かしも入っとるからね。買うときも、売り場にマジックをするディーラーがおって、ちゃんと説明してくれおるんですよ」
そのディーラーはいわゆる手品師なんですかね?
「そうやね。そういう人がこれまたよう見ても全然わからんマジックを目の前でやりおるんですわ。そこらへんからもうマジックにものスゴく興味を持ち始めまして、当時そういうグッズは100円もしてね、当時の100円いうたらスゴいですよ。そんなんを買ったりしましたわ。でも、買ったはいいけど全然できませんのや(苦笑)」
手品師のようにはいかない?
「難しい。種明かしを見ても全然できませんし、中には箱を空けたら中身はちょっとやそっとじゃ目に見えへんほどの細い糸が1本入ってるだけとかね。それは操り系のマジックやったんですけど、そんなもん買ってもすぐにできませんよ」
でも、できると思って買っちゃうんですよね。
「売る方もさすがやで、子ども心をよう知っとるわな(笑)まぁそっから中学高校と、たまに友だちの前でやってみたりして楽しむくらいの趣味としてマジックはちょこちょこ続けていくんですわ」
それがまたどうして一生の生業になっていくんですか? 人前でやるという快感に魅せられたとか?
「いやいやいや。まぁ上手くできたときとか、友だちをダマしたりできたときは嬉しかったけどもね。マジックいうもんはホンマおもろいなぁって思っとったけど、それ以上のもんはまったくなかったね。ましてやそれを商売にするなんて思いもしなんだよ」
舞台に対する興味も?
「まったくありませんでしたね」
露天商のしゃべくりもお好きだったみたいですし、人前で手品をするのも好きだったんですよね?
「こう見えてボクはね、かなりの緊張しぃというか、あがり症でしてね。しかもしゃべくりは好きでしたけど、そのしゃべくりが一番苦手やったんですわ。その頃はマジックも何にもしゃべらんとやる感じのシリアスなマジックをやる感じやったんで」
黙々と手品を披露する?
「特に当時はしゃべりながらマジックをやる人なんておらんかったからね。BGMをかけて黙ってやるみたいなね、それしかなかった」
チャラララララ〜♪みたいなやつですね。じゃあさらにまたなんでマジックが生業にという疑問がわきまくりなのですが?
「ボクの師匠(故・ゼンジー中村氏。以下、中村氏)がね、百貨店でマジックの商品のディーラーをやっとって、売り場で実演もやってたんですよ。その頃師匠はまだアマチュアってわけやないですけど、プロのマジシャンじゃなかったんですわ。ボクは師匠の実演によう行っとって、話させてもろたり、ときには教えてもろたりと仲ようさせてもろとったんですわ。で、程なくして、その師匠がプロになる言うもんやから、思わず『付いていきます! 鞄持ちでも何でもやります、弟子にしてください』って」
ズバリ言ってその場の勢いみたいな?
「そう言われたらもうその通りやね。勢いですわ。その瞬間まで、もちろんマジックはずっとやりたいなとは思てましたけど、その世界で食っていくなんてまったく思てませんでしたから。でも、師匠のプロになるいう宣言を聞いて、なんか熱くなりましてね、師匠がプロ宣言した瞬間、ボクもこの世界に入ったいうわけですわ。そんときはボクは20才やったね」
なるほど。ただ、中村氏もプロ宣言したばかりなわけですし、正直手探りな師匠と弟子ふたりの船出だったわけですね。
「そやね。最初の最初なわけやし、そういう意味では師匠もまっだまだまるまる素人みたいなもんやから」

当時、マジックのプロというのはどういう位置づけだったんですか?
「寄席の中のひとつですわ。落語があって、漫才があって、その漫才と漫才の狭間にあるような。刺身の“つま”みたいな」
つまり色物だったわけですか。
「そやね、色物ですわ。でも、寄席には必ず1本は入っとった」
当時、プロのマジシャンって国内にどのくらいいたんですかね?
「そやなー、大阪で6人くらい、東京には20〜30人ってとこやったねぇ。その中でも有名な人はひとにぎりくらいかな」
正直、かなり少なかったんですね。
「実際まだまだプロのマジシャンなんておらん時代ですからね。でも、影のプロはたくさんいましたよ」
影のプロ! なんだかゾクゾクしますね。
「まぁ影言うてもそんな怪しいもんやないんやけどね(苦笑)。当時は我々の職場はキャバレーでしてねぇ。昭和30年代はもうそらキャバレー全盛の時代で、ドーム型のどデカいキャバレーから場末のキャバレーまで、そういうのが職場やったもんですから、色物のマジックとかジャグラーとかね、そういうのを抱き込みでショーをやるんですわ。北は北海道から鹿児島までね、沖縄はまだ日本ちゃうかったさかい行きませでしたけど、ボクらも日本各地に行きました」
プロ宣言していきなり全国ツアーですか!
「そやね。だから食うには全然困らんかったよ。現場が多いもんですから、どこでマジックの修行というか、勉強をしたいうたらキャバレーですわ。ネタを増やしたんもキャバレー」
当時のキャバレーを舞台にしたヤクザ映画とかから推測すると、かなり怖い現場だったんじゃ?
「まぁ安全とまではいきませんけど、そんなに怖いもんじゃなかったですね。1年365日、移動以外はそのほとんどがキャバレー生活でしたね」
食うには困らなかったとのことですが、ギャランティー的にはどんなもんだったんですか?
「当時ボクらが貰てたんは1ステージで1500円から2000円くらいでしたね。それが1日多いときで3回、でもって月のほとんどが現場でしたから。当時の大卒のサラリーマンの初任給が10000円そこらやったと思いますし、そう考えたらねぇ」
数十倍じゃないですか! プロ宣言した瞬間に、しかも弟子時代でそれはハンパないですね。大変恐縮なんですが、正直ボロい商売だなと思ったりとか?
「いや、それはなかったですね。それほど楽な仕事じゃないわけですよ。実際、いつ何時も絶壁を歩いてる様な商売でしたから。なぜかというとですね、多いときで1日3回ありますわな。そうなると、3回とも同じことなんてできないんですよ。しかも1カ所でだいたい3〜4日、多きときで10日くらいいるもんですから、1度でも同じことやるとすぐに飽きられてまうんです」
そうなると、四六時中ネタを考えていないといけなくなりますね。
「そうなんですわ、それが辛い。もちろん、お客さんは回転はしますけど、ホステスさんは同じなわけですよ。ホステスさんに飽きられてしまうと、ステージなんて見てくれへんようになって、お客もそうなるんです。だからもうホステスさんに飽きられたらそこで終わり。そやから引き出しの中にはいつでも新しいもんをいれとかなアカンのですわ」
それはかなり苦しいですね。しかも明くる日も明くる日も……。
「飽きられたら次にはもう呼んでもらえへんくなるしね。そういう部分ではもうかなり努力しましたよ」
師匠の鞄持ちからひとりで舞台に立たれたのは?
「それもかなりなし崩し的な流れでしたね。最初の方は師匠の前座でやらせてもろうて、師匠の舞台を見て勉強してという感じでしたけど、1年くらいしたら『ちょっとあのキャバレーに行って来て』みたいになって、場末の小さなキャバレーとかにひとり行かされて(苦笑)」
いきなりですか! かなり緊張されたのでは?
「そんなもん地に足がつかへん状態でやりましたわ」
失敗とかされたり?
「それはもうかなりありましたね(苦笑)」
そんな場末のキャバレーだとお客さんの層も違うわけですし、かなり緊迫した舞台になったのでは?
「そりゃもうえげつない野次が飛んできますわ。でももうしゃーないと思って黙々とやりました。自分がそれだけのことができひんかったということですしね」
そういうときってどうされたんですか?
「もう頑張らなしゃーないと(苦笑)かなり惨めなんですけど、そこで投げたら次呼んでもらえませんからね。やはり仕事の返り(もう一度呼ばれる)が欲しいですし、次は絶対に野次なんか飛ばさせへんという気持ちで、狂ったようにネタを勉強して努力させてもらいましたね」
ストイックですねぇ……。当時の漫才師の方とか、大師匠になられている方の30年代のお話とかって、酒に女に博打にって感じの話が多いんですけど、マジシャンは違うんですね。
「まず職場が違いますからね。漫才はキャバレーで仕事できひんからね。ゆえにですけど、漫才の人らは当時職場がものスゴくなかったんですわ。だから一部の売れっ子さん以外は金銭的にも恵まれてなかったんですよ。でも、ボクらはキャバレーがあったわけで、その点は恵まれてましたわな」
演芸やお笑いという世界は全部が全部ドル箱商売ではなかった?
「今じゃね、いろんなメディアがあって、数多く職場があるわけで、演芸やお笑いは手っ取り早い金儲けみたいな感じで世間から見られてると思いますけど、当時はものスゴくシビアな世界でしたわ。お客もそのほとんどが酔客なわけですし、そんな酔客を相手にしてウケがないと、もう次に仕事がないわけですよ。ハードルは確実に現在よりは高かったです。でも、だからこそそんな酔客にウケると、頑張ったという実感があってね、快感といえば快感でしたね」
貴重なお話ですね。師匠はまだその頃はシリアスなスタイルだったんですか?
「そうですね。タキシードに蝶ネクタイで黙々とマジックをやるというスタンダードなスタイルでしたね。というか、当時マジシャンというものはそれが普通やったんです」
あがり症だったという点でも、シリアスなスタイルは師匠の性にあっていたのだと思うのですが、それがまたなぜ?
「なんで今のコメディーなスタイルになったのか?いうことですね。とにかくね、マジシャンいう人はそんな人ばかりやったんですよ。もちろん、キャバレーに出てたらそれで食うていけるんですけど、なんかこのままじゃこれより上にいけんなぁと思い出しましてね」

つまり有名になりたいと?
「そうですね、有名になるにはこれだけじゃアカン思うてね、昭和36年くらいからテレビなんかもボチボチ増えてきまして、この商売でテレビとかに出て有名になるには何をすればいいのかっていう部分で、パッとひらめいたんが『しゃべくりやな』と」
考えた結果が一番苦手な部分だったと。
「しゃべくりしながらマジックするなんて今じゃ普通ですけど、当時は誰ひとりとしていませんでしたからね」
しゃべりながらマジックするために研究された?
「かなりしましたね。ただ、やはり人前に立つと緊張して声が出んようになってしまうのがアレでしてね。なんか上手い方法はないもんかと考えてたんですわ。で、当時事務所の横に中華料理屋がありましてね、何気なしにそこで飯を食うてたんですけど、そこの店主が中国の人でね。日本語を喋るんですけど全部片言なんですわ」
これだ!と。
「そうですね。これをマネたらもしかしていいんちゃうかなって思いついて、さっそくやってみたらなかなかこれがしっくりきましてね。人前でもけっこう話せるようになって『これしかない!』と」
師匠の中国人ギミックはこれまた思いつきと偶然から生まれたわけですか。
「その場の思いつきやね(断言)。そんで明くる日から中国の人が話す片言の日本語の練習をして、中国服もきっちりと仕立てて、その日からもう今のスタイルですわ」
「タネモシカケモチョコトアルヨー」みたいな(笑)
「お客さんの中にはボクがホントに中国人やと思ってる人もいましたわ。人前でも全然話せるようになりましてね、しかもボケやすいし、突っ込みやすい。お客さんに『オマエナニシテルカ!』とか言っても、あの人は中国の方なんだなって思われて笑いになるんですよ。でも、もし日本語で『お前なにやってんねん!』ってなったら『何喧嘩売っとんねん!』ってことになりますわな。なんぼ上からものを言うても笑いに変わるし、お客さんもいじれて舞台に一体感が生まれたりで、利点がかなりありましたね」
そして、数々の名言ギャグが生まれていったと。
「なんか裾からだそうとするときに『アレ、ココナンカゴソゴソスルヨ』とか、もちろん『タネモシカケモチョコトアルヨ』なんかは全部当時生み出しましたね。それまでの手品では『種も仕掛けもございません』というのが当たり前だったんですけど、ボクは『アル』と断言しちゃってね。手品の最大の御法度である“種明かし”を舞台でするという」
それってプロレスラーが試合後のリング上でカミングアウトするのと同じじゃないですか(苦笑)
「そうですねぇ、こりゃもう完璧な御法度ですわ。ただ、本気のマジックの種を明かしたり、人がやってる技の種を明かしたりをするんじゃないですよ。小さい頃に買うてた百貨店なんかで売ってる小さなマジックの種をおもしろおかしくしゃべるんです」
他のマジシャンから反発喰らいませんでしたか?
「そりゃもうかなり喰らいましたね。しゃべくりしながらマジックするゆうだけでも掟破りな時代に、加えて種明かしですからね(苦笑)先ほども言いましたけど、別にその人がやっているマジックの種明かしをしてるわけちゃうんですけど、種明かしどころか、種があることをマジシャンが自分から言うゆう部分にアレルギーを持ってる人がもうほとんどでしたから、とんでもなく反発もされましたし、結構潰されたりもしましたねぇ」
潰される!? 具体的にどんな感じで?
「マジックの最中に舞台に上がってきて『お前何しとんじゃコラッ!』って襲われたり、客席からヤジりまくられてステージが止まってしもたりね。しゃべくりでウケをとってたといっても、このスタイルになって全然経ってなかったときやったから、もうそうなってしもたら受け答えすらできひんくなって、散々でしたね」
ましてや中国人ギミックですしね……。
「それもあるし、経験もまだまだやったからそういうハプニングを味方にできませんでしたね。当時はまだ出だしでアドリブなんかも効かへんし……、でもまぁどこにでもある世界ですけどね」
やっかみですか。
「そりゃもう潰しはホンマにスゴかったねぇ(苦笑)。でも『今に見とけ!お前らより絶対に上にいったるわ!!』みたいなことを内心思っとった。でね、スタイルを変えて1年くらいからかな、客席はいつでもバカウケやったし、お客さんにウケまくってたからテレビの方からも声がかかり始めてね、テレビに乗っかりましたわ」
それはいつ頃ですか?
「昭和38年やね。今はもうなくなりましたけど、当時の角座にね、そりゃもう日本一の寄席の劇場でしてね、その角座に出してもろて、それが放送されたんですわ」
スタイル変更から1年で大御所や売れっ子が集結する劇場に、しかもテレビ付き!!
「大丸ラケットさんとか、かしましむすめさんとかね。かなり有名な人の中にボクも入らせてもろて。他の従来通りのマジシャンの先輩なんかも出てましたけど、ボクはもうかなり異色でね。手品に付きもんやったBGMはない、中国人みたいでしゃべくりでマジックして種明かししてギャグも言うみたいな。そりゃもうウケましてね、そこから一気に火がつきましたわ」
そこからはもうあれよあれよと?
「自分で言うのもアレなんですけど、ホンマに当時そんなマジックはなかっただけにね。そういう部分ではかなり着眼点はよかったんやなと今でも思いますわ。その年から関西ローカルはもちろん、東京のテレビにもすぐに呼ばれましたし、東京でもかなりウケましてね」
めちゃくちゃ忙しくなっちゃった?
「そらもうホンマに忙しかったですわ。昭和40年くらいからは寝る間もない感じ。しかも、一番の稼ぎ頭だったキャバレーやったんですけど、名前が売れたことによってギャラももちろんあがりますわな(笑)」
嬉しい悲鳴ですねぇ! しかも、お客さんはキャバレーでホステスと飲みながら横目でマジックを見るという立ち位置じゃなくて、ゼンジー北京のショーを見るというスタンスに変わってるわけで。
「そうなんですわ。かなり楽になりましたね。舞台に上がったらお客さんを盛り上げて、自分ペースでたたみこめば確実にウケるという流れが勝手にできてましたからね。その頃初めて『売れるとちゃうねんなぁ』と実感しましたねぇ。まぁ、その反面苦労も10倍くらいになってしまいましたけど」
やはり苦しんだのはネタですか?
「そうですねぇ。テレビ用のネタに舞台用のネタ、しかもテレビは他の放送局と同じネタはできませんし、舞台もそう。キャバレーもありますし……。ボクらの時代は作家さんなんてそんなもんおりませんし、全部自分で考えて、自分で作って、自分で演出して、自分で演じるわけですから、そりゃもうちょっとでも怠けたらすぐに頭打ちになってしまうんですよ。『失敗したら次はない』ゆうシビアな部分はよりいっそう色濃くなってるわけですし、維持するのがホンマにしんどかったですわ」
絶壁の崖具合も落ちたら即死級の高さになってしまったと。
「そうですわ。おもろいもんはずっとおもろなかったらアカンわけです。いつ見てもおもろないとダメなんですよ。だから四六時中ギャグを考えてましたし、マジックのネタもね、あんまりこれは言うたことないんですけど、当時はマジックの最新の情報なんてどこにもないわけですし、もちろんDVDやビデオもないですし、本場に行かんと情報がないんですわ」
では昭和40年代からマジックの本場、例えばラスべガスやヨーロッパに?
「海外のマジシャンの舞台を見て勉強するためにとか、情報収集や新しいネタを探しに、全然ない時間をむりやり割いて海外に飛びましたね。ラスべガスや海外をまわりましたよ。もうね、いかなしゃーないんですわ(苦笑)」
ゆえに、いつでも新鮮なマジックを提供できた?
「稼いでたからできたことなんですけどね。でも、そのほとんどがマジックに飛んでしまうというね(苦笑)」
もう何もかもがマジックの人生ですね……。
「まぁ、マジックが生業でしたけど、一番好きなことと言えばそれもまたマジックでしたからね。それが唯一の楽しみでもありましたし。今思えば贅沢のひとつでもすればよかったんやけどもね(苦笑)」
いやぁ、正直カッコいいですよ!
「そんなええんもんやないですよ(照)当時で何百万もするネタを仕入れたり、アホですわ。日本のマジシャンは当時まだそこまでいってませんでしたからね。だから、今思い返すとマジシャンとしては幸せな部分ですわ。とにかく、お金の苦労というか、金銭的な苦労が時代にも恵まれたんでしょうけど、ありませんでしたから」

もちろん、時代というのもあるでしょうけど、やはり師匠のマジックや笑いに対する真摯な心が成功をもたらしたと思うのですが?
「まぁたしかに、あの頃は何かに取り憑かれたようにふんばっとったからね。舞台に上がったら絶対に爆笑を取っておりなアカンと、他の漫才さんや色物さんに絶対に負けたらアカン。時には前も後ろも漫才さんなときもあって、そんなときも絶対に前の漫才さんより、後ろの漫才さんよりも会場を沸かす、爆笑を取ると決めてましたし。でもね、今思えばボクはしゃべくりもするけど結局ジャンル的にはマジシャンなわけで、そんな笑いを取ってこんでもぶっちゃけ別にいいわけですよ(笑)」
アハハハハ!
「なんやろうね、若かったんかねぇ。その時自分は絶対に納得せんかったね。絶対に笑いを取る、一番取る、そんな意識は常に絶対的でしたね。まぁ、そんなに張りつめててよう続いたなと今は思いますけどね」
自らの選択で、絶壁にずっといるわけですしね。
「割と通用したんがホンマに驚きですわ(笑)まぁ、言うてしまえばそりゃ辛いですけど、テレビは比較的楽でしたね。時間も短いし、だいたが5〜6分、長くても10分ですし。そこに集中したネタふたつみっつパパーンとやって、テンポアップしていけばそれで終わりいう感じやったし。収録はお客さんも入ってたけど、ウケなんだらウケなんだでしゃーないから、なんかギャグかましたろっていう部分がありましたしね」
なるほどねぇ。ちなみにテレビで大失敗したことってないんですか?
「ひとつだけ忘れられんのがありますわ。結果的には失敗やないんですけど、マジック的には大失敗(笑)」
是非、聞かせていただけますか?
「お客さんから1万円を借りてね、それを紙に包んで燃やして、また元通りにするってマジックがあるんですよ。そんで、お客さんから1万円札を借りて、ちゃんと番号を控えたりして紙に包んで燃やそうとしたら、お金を出したお客さんが『それ紙に包つまんとそのまま燃やせ」っていいよるんですよ」
うわぁ、空気読めない人ですねぇ、しかもテレビで(苦笑)
「そんでね、『アノネ、オッキャクサン。コレ、コノママモヤストホウリツフレルヨ。ワタシツカマルヨ』ってアドリブを効かせたんですけど、お客さんも『もうその金はあんたにやったもんや。燃やせ言うたら燃やせ!』って引かんのですわ(苦笑)」
あちゃちゃ……
「まぁその番組は録画やったんですけど、他のお客さんからお金を借り直すわけにもいかんし、そんなやりとりしてたら時間も使ってまうし、ホンマに燃やしたったんですわ」
それ、その後そうするつもりだったんですか?
「かなりやりとりしたんですよ。でも全然ダメでねぇ『ワカッタ。ホントニモヤス。デモ、ボクニセキニンナイヨ。オキャクサン、アンタンモヤセイウタカラハイモヤスヨ』って。おもいきり燃やしたったんですわ。で、『ハイ、ホンジツワ、イチマンエンノモヤシカタデシタ。オワリ』言うて、そのまま舞台から降りましたわ」
アハハハハ!
「ホンマねぇ、やりとりしながら『これはもうどないしょうかなぁ』って考えて考えて、そんでね、『しゃーない、もう燃やしたれ』思てね。マジックは失敗やけど、笑い的にはウケるやろ思て」
ハプニングを逆手に取った大成功ですね! 師匠の芸風はある意味無敵ですよね。
「そやね、そうゆう意味では無敵かもしれんね。そないして、その場で考えて、狙って、失敗を失敗に見せんよう演出して、それが結果的にウケたら勝ちやからね。このプレッシャーがまたやってておもろいところですわ。まぁ、マジック的には大失敗やけどもね」
そういった部分も鍛錬を重ねてるんですか?
「いや、そこらへんはもうぶっつけですわ。これはもう大きい声で言われへんことやけど、マジック自体もあんまり練習しませんからね(笑)」
アハハハハ!(爆笑)
「アハハハハ。いやね、普通マジシャンいうもんは鍛錬に鍛錬を重ねて、絶対に失敗しないように練習するわけですけど、ボクの芸風やとそれだとアカンのですわ」
「これ、このままだとゼンジー北京は失敗するんじゃないか?」という変な期待感を持たせる?
「その通りです。もたもたとね、北京のマジックはどうにもこうにも手慣れてないいう、そのおもしろさやね。そのおもしろさを出すには手慣れたらアカンのです。だからもうマジックの構想が出来上がったら、その構想だけ持ってそのまま舞台にあがるようにしてます」
特に練習もせずに?
「そら何回か試しますけど、そんなにはしませんわ(きっぱり)」
それはそれでものスゴいことですよ! ハプニングを味方につけるには、自らハプニングに飛び込まなきゃいけないと。
「そうですね。そういう舞台に自分を追い込んで、どないなふうにお客さんを巻き込んで、アドリブで押し進めていくかっていう部分がボクの楽しみであるし、ボクの芸なんですわ。それでウケなかったらもうそこまでの話。次に同じことをせんかったらそれでいいんです」
素晴らし過ぎます! 最近のマジック界には絶対にあり得ない世界観ですよね。
「最近はもうテクニックの方向ですからねぇ。テーブルマジックやクローズアップのマジックね。ああいうのは昔からあったんですけど、あの手のマジックが脚光を浴びるなんて思いもしませんでしたわ」
それはまたなぜですか?
「たくさんのお客さんを相手にできませんもん。あんな小さな世界でチマチマやってもどうしようもないと思ってましたしね。マリックが出て来て、ああいうもんをやり始めたでしょ。だから『えぇとこ着眼しよったなぁ』と」
方法論としてはテレビのみで勝負するって割り切りですしね。
「そうですね。舞台やったらあんなもん通用しませんからね。まず、見えませんから(苦笑)」
マリック氏が世に出始めた時に師匠はマジックの新しい波を感じられた?
「なかなかの世界を作りよったなぁと思いましたね。ボクは彼がマジックのディーラーやった頃から知ってたんですけど、まさかあの辺のものをあそこまで持っていくとは思てませんでしたから、偉いなぁと、努力しよったなぁと」
500円玉にダバコを通すとか、コインがコップの底を突き抜けるとか、子どもたちがワーッてなりましたもんね。
「子どもらがとっつきやすい部分もちゃんと残してるのが素晴らしいと思いましたね。またマジックが盛り上がってくれるなぁと思って見てましたわ」
正直、ご自身とは別物だと?
「いやいやいや。あれもマジックの中のひとつやし、昔からあったもんなんですわ。ただ、誰もああいうもんは通用せんと思ってたわけでね。見た人はボクらのマジックとは別物に見えたやろうけど、同じですよ」
最近はマジックのジャンルも大幅に広がりましたね。
「いろんなジャンルが増えて、活気が出て来ていい感じやなとは思いますね。若い人もいろんな部分で刺激を求めていて、たくさんのマジックが生まれてますからね。いいことですわ」
大掛かりなものが増えているのも事実ですが。
「最近はね、メカを使うたりそういうのが多いでしょ。ちょっととっつきにくいかなぁとは思いますね」
大変恐縮なんですが、マジックってやっぱり身近なものじゃないといけないと思うんですが?
「ボクもそう思います。さっきも言うたように、最近は情報が出回りすぎて、逆にやりにくいんちゃうかなと思うんです。ゆえにみんな技術、テクニックに走る傾向で、何か変わった表現力をっていうものを持ってくるのが難しいんちゃうかなと」
師匠の周りの若いマジシャンもそんな傾向ですか?
「お客さんと距離があるのは確かやね。もちろん、それはそれなりということで、個性を持ってやっていけばいいと思うし、ボクが何か言うのはおこがましいと思うんやけど、テクニックだけやったらいつか必ず頭打ちしてまうし、飽きられるし、それだけじゃ絶対に売れません」
師匠からなにか助言することがあるなら?
「たくさん引き出しを作っといた方が絶対にいいですよ。いろんな情報を得て、テクニックも磨いて、それもいいけどね、それだけやのうて、例えばコメディーもやってみと。異常に手品が上手いって言っても『それがどないしたん?』って世界のほうが多いからね。しゃべくりができたら絶対に得やでと。ずっとこの世界でやれるでと。でもまぁ、今の若い子らはボクなんかよりちゃんと考えてますよ。勉強もしとるし、ボクは楽しみにしてますわ」
師匠はその点、生涯マジシャンで生きていく理想型のモデルですよね。
「そんなもんとちゃいますよ。正直、ボクは自分でマジシャンと思ってませんからね(苦笑)」
アハハハハ! じゃあなんなんですか?
「マジシャンであってマジシャンではないというか、これまでチャランポランな芸で勝負してきましたからね。もちろん、ある程度の計算はしてますけど」
濃密かつ緻密な計算をされてますよね。
「そんなやらしい感じとはちゃいますけどね。ただ、世間的には八方破りなマジックをひとつの生き方としてさせてもろうてきたとは思てます。ボクは自分のやってることがマジックとは思ってませんけど、まぁ1カ所だけ不思議なことをやるみたいなね、そこでおもしろければそれでゼンジー北京なんやと。あとはお客さんと遊んで、楽しんでもろて、パーンと終わるっていうね。それがボクのマジックでなく、芸なんですわ」
いやぁ素晴らしい!! なんだか魔法にかかった気分ですよ。
「正直、人と違うことせな、変わったことせな世には出れんちゅーことですわ。ボクは入れたかったし、お金儲けもしたかったし、そやったら何をすればいい? しゃべるやつおらん、ほなしゃべったれ! 種明かしなんて誰もせん、ほなやったれ! もちろん今思えばかなりハードルが高かったけども、しょせんこの世界、売れたもん勝ちやからね」
あらためて振り返って、師匠自身、なんでマジシャンの世界で一時代を築けたのだと思いますか?
「マジックのセンスがないからやろね。マジシャンとしては致命的やけど、それを逆手に取って味方にできたからちゃいますかね」
どの業界にも通用するありがたい言葉です! さて、奇術、魔術、マジック、それらがいかに素晴らしいものかをメッセージにしていただけますか?
「単純に不思議でおもろい、これに尽きるんちゃいますか。手品の場合はそのトリックを明かしていこう、追求していこうとしてもできないのが魅力であって、中身はどうなってるか?というわからない部分がマジックなわけです。そのおもしろさを追求して虜になって、だんだんと自分ものめり込んでいく。これは自分でせんと解決せんということになってきて、ついついやってしまう。そんな方もたくさんおりますんでね。夢の一部ですよ、不思議なことを体験したい。そんな夢の世界を表現したおもしろい世界だと思いますわ」
ありがとうございます! じゃあ最後に、今後師匠がお持ちの展望をお聞かせくださいますか?
「もうこの年やしね、何か大きなことに挑戦するとかそういうのはもうしんどいですけど、やりたいこと、やっておかなアカンことがひとつあると思とるんですわ。それはね、昔のマジックをね、大正明治昭和の大昔の忘れ去られたマジックを残すいうことね。そういうのを掘り起こして、ボクなりにアレンジして見せることができればいいなと思てます。きっと今の人には新鮮に映るやろうし、後世に伝えるいう意味でもやらなアカンかなと。70超えて、もうどこまでやれるかわかりませんけど、やれるところまで頑張らさせてもらいますわ」
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